「俺は何もかも失ったんだ。それのどこがいいんだ?」
「だって、アブサンが飲めるんやで。めでたいやんか」
やっぱりこの女はおかしい・・・
きっとどこかの病院を脱走してきたのだろう。
「おめでとうさん!」
アロハ男はそういいながら、淡いグリーンの液体が入ったボトルを、カウンターの上に置いた。
いや女だけじゃない。この男も同じだ。
「これがアブサンやで〜」
嬉しそうにアロハ男がうんちくを語りだした。
アブサンは、19世紀の芸術家たちに愛された酒で、ニガヨモギの“ツヨン”という成分が幻覚を引き起こすと言われている。
感性やインスピレーションを引き出す霊酒として、あのゴッホも愛飲していたらしい。
アブサンという名は“存在しない”という意味である。
「存在しないって、何が?」と小五郎はアロハ男に聞いた。
「存在しないものや」
「存在しないものは、最初から存在しないじゃないか」
「その通りやな。でもあんたは自分が存在してると思ってるやろ?」
「・・・」
小五郎は言葉を失った。
というのも、子どもの頃から幾度となく不思議な体験をしていたからである。
何の予告もなく、自分が透明になったような感覚がやってきた。
その時、自分は“誰でもない”のである。
世界はあるが、私という個人はいない。
ほんの数十秒だったが、その感覚は非常にリアルだった。
もしかして俺は長い夢を見ているのだろうか?
日常が幻想で、あれが“本当の自分”ではないのか?
そんな疑問がずっと小五郎の心の奥に鎮座していたのである。
「もしかして、この俺は存在していない?」
「それは、アブサンを飲めばわかることや」
「・・・でもちょっと怖い気がするな」
「あんたは大丈夫。ちゃんと準備できてるもん」
悦子が口をはさんできた。
「もしかして悦ちゃんも飲んだのかい?」
「当たり前や。自分が飲んでないもん、よう人に勧めんわ」
「・・・そっか。じゃあいただくとするかな」
ショットグラスに三分の二ほどつがれたアブサンが、小五郎の前に出された。
グラスを口元に近づけ、香りを確かめると、そのままグリーンの液体を一気に流し込んだ。
“んぐっ”と喉が音を鳴らすと、
ぐああああああああっ おおお!!!
と猛獣のような雄たけびをあげた。
「私、アブサン一気飲みする人、はじめて見たわ」
「言い忘れとったけど。その酒70度やで」
「ごほごほっ・・それを先に言ってよね」
三人は声を合わせて笑った。
ラベルに描かれた大きな目が、小五郎の顔をじっと見つめていた。
第9話へ |最初から読む|INDEXへ
11月に全国4会場で開催!(大阪・東京・名古屋・福岡)
「生きながら生まれ変わるセミナー」→ 只今参加者募集中
番組へのご投稿(相談・質問)は、こちらへ