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2013年09月17日

今宵もあのバーで 「カリスマの男」8


「俺は何もかも失ったんだ。それのどこがいいんだ?」

「だって、アブサンが飲めるんやで。めでたいやんか」

やっぱりこの女はおかしい・・・
きっとどこかの病院を脱走してきたのだろう。

「おめでとうさん!」
アロハ男はそういいながら、淡いグリーンの液体が入ったボトルを、カウンターの上に置いた。

いや女だけじゃない。この男も同じだ。

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「これがアブサンやで〜」

嬉しそうにアロハ男がうんちくを語りだした。
アブサンは、19世紀の芸術家たちに愛された酒で、ニガヨモギの“ツヨン”という成分が幻覚を引き起こすと言われている。
感性やインスピレーションを引き出す霊酒として、あのゴッホも愛飲していたらしい。
アブサンという名は“存在しない”という意味である。


「存在しないって、何が?」と小五郎はアロハ男に聞いた。

「存在しないものや」

「存在しないものは、最初から存在しないじゃないか」

「その通りやな。でもあんたは自分が存在してると思ってるやろ?」

「・・・」

小五郎は言葉を失った。

というのも、子どもの頃から幾度となく不思議な体験をしていたからである。
何の予告もなく、自分が透明になったような感覚がやってきた。
その時、自分は“誰でもない”のである。
世界はあるが、私という個人はいない。
ほんの数十秒だったが、その感覚は非常にリアルだった。

もしかして俺は長い夢を見ているのだろうか?
日常が幻想で、あれが“本当の自分”ではないのか?
そんな疑問がずっと小五郎の心の奥に鎮座していたのである。


「もしかして、この俺は存在していない?」

「それは、アブサンを飲めばわかることや」

「・・・でもちょっと怖い気がするな」

「あんたは大丈夫。ちゃんと準備できてるもん」
悦子が口をはさんできた。

「もしかして悦ちゃんも飲んだのかい?」

「当たり前や。自分が飲んでないもん、よう人に勧めんわ」

「・・・そっか。じゃあいただくとするかな」

ショットグラスに三分の二ほどつがれたアブサンが、小五郎の前に出された。
グラスを口元に近づけ、香りを確かめると、そのままグリーンの液体を一気に流し込んだ。

“んぐっ”と喉が音を鳴らすと、
ぐああああああああっ おおお!!!
と猛獣のような雄たけびをあげた。


「私、アブサン一気飲みする人、はじめて見たわ」

「言い忘れとったけど。その酒70度やで」

「ごほごほっ・・それを先に言ってよね」

三人は声を合わせて笑った。
ラベルに描かれた大きな目が、小五郎の顔をじっと見つめていた。

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posted by 安達正純 at 10:47 | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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